アラジンのストーブの上でシューシューとやかんが音をたてる。
ガリガリガリ…と手動のミルで豆を挽く父と、部屋いっぱいに広がるコーヒーの香り。
ミルを固定したテーブルはギシギシいって、豆の欠片もそこいらじゅうに飛び散る。
けれど、それらも含めて父と母が楽しんでいる様子は、まだコーヒーを飲めない幼い私にも伝わってくる。
幸せな、休日の朝。
私はコーヒーの香りが大好きだ。
「癒し」などという一言ではとても言い表せない。
体中に懐かしい風がゆっくりふんわりと入って来る。
思わず目を閉じてしまう様な幸福感の後に、なぜか少しだけ切なさが残る。
香りとは不思議なもので、それが鼻の奥に届いた瞬間、普段は忘れている記憶がよみがえる事がある。
コーヒーの香りは、40年以上も前の休日の朝まで、一瞬にして私を連れて行ってくれる。
あの頃からずっと、私の暮らしの中にはいつもコーヒーがあった。
15年前、父が倒れ、続いて母も。
私の子どもが2歳と0歳の時だった。
不自由になった両親との生活が始まった。
大人と子供のオムツを夜中に替えながら授乳する毎日は、想像以上に厳しく、辛かった。
ひとりっ子の自分が親を看るのは当然と分かっていながら、放り出してしまいたい悪魔の様
自分もそこにいる。
そんな時、ほんの束の間、音楽を聴きながらコーヒーを味わうと、酸欠状態の心の中に隙間風が通った様に楽になった。
皮肉にも、両親が教えてくれた音楽とコーヒーの楽しみのお陰で、私は自分をとり戻せたのである。
この夏、とうとう父は口から一切のものを飲めなくなり、家に帰れなくなってしまった。
愛用していたマグカップにコーヒーを入れて香りだけでも病院に届けられたら、もしかしたら父も、40年以上前のあの時に一瞬でも戻れるのかな。
そんな事を思うから、コーヒーの後味は少しだけ切ないのかもしれない。
菜央