久東(くとう)さんがコーヒーを淹れるのは、いつも空の下だった。
マキネッタで淹れたエスプレッソに、たっぷりのミルクとお砂糖。
私がコーヒーを飲めないと知っていた彼は、最初からこの甘くて美味しいカフェラ テを淹れてくれた。
彼はもちろんエスプレッソ。
キンと冷えた星空の下パチパチはじける焚火や、靄のかかった湖畔の朝焼けを眺め ながら、 2人で肩を並べてズズズッとコーヒーをすする。
幸せなひと時だった。
私たちは恋人ではない。
久東さんは私が付き合っていた大学の先輩の大親友。その頃から久東さんの彼女も 含め4人で出掛けることも多く、兄と妹のような関係だった。
私が先輩と別れた数か月後、久東さんはキャンプに誘ってくれた。
もともと野外料理やキャンプをするのが好きだった私達は意気投合し、いろいろな 所に出掛けるようになった。
でも、もちろん彼にとって私は女でなく、私にとって彼は男でない。 だから同じテントで寝ても彼は私に指一本触れないし、私もレースの下着なんて着 なかった。
周りには秘密だったけど、2人で過ごす時間はただただ楽しかった。
時は流れ、1 年くらいたったある日。流星群を見ようとキャンプに出掛けた。
いつものようにコーヒー片手にリクライニングチェアを並べ空を見上げた。
しばらくして星が流れはじめると、私は「あっち!」「そこ!」と空を指差し、はし ゃいでいた。
「うるさいなぁ」久東さんが笑いながら私の伸ばした手を握ったので振り返ると、 彼は私にキスをした。
そのキスは、とても温かくて柔らかくて、エスプレッソのほろ苦い味がした。
その温もりが胸に達した次の瞬間、私達はハッと我に返り、同時に「ごめん」「ごめ んなさい」と言った。
これは事故だ。事故なんだ。そう言い聞かせていつものように時が過ぎ、何事もな かったように次の日別れた。
それからしばらくして久東さんから電話があった。
彼は「また行こう」ではなく「付き合おう」、そう言った。
でも、それはできなかった。 私は彼の大親友の元彼女。久東さんにも彼女がいる。
後々こうなる覚悟もしないで彼の優しさに甘えてばかりいた私は、なんて無責任で 愚かなんだろう。
友達だったらこの楽しい日々に終わりがくることはない、そう願い信じていた。子 供だった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」、泣きながらただただ繰り返していた。
そしてずっとごまかしてきた自分の本当の気持ちに気付き、その涙は止まらなかった。
それから間もなく私は大学を卒業し、私達が会うことは二度となかった。
あれから 20 年以上の月日が流れた。
そういえば私は久東さんの下の名前を知らない。好きな歌や嫌いな食べ物は知って いても、住んでいる所も就職先も知らなかった。写真も1枚もない。
今では、彼と過ごした日々は夢だったのではないかとさえ思う。
だけど、きれいな景色に出会うと、街で挽きたてのコーヒーのいい香りに出会うと、 いつも思い出すのは、甘いカフェラテとエスプレッソを片手に肩を並べたあのキラ キラした日々。
空の下で飲むコーヒーの美味しさは、久東さん、あなたが教えてくれた。
そして、本当の恋の切なさも、きっと。
川崎 美保